生物学的見地から見た「人間の生態」1
毎月、福岡と千葉の行き来をしている私ですが、移動の時が一番幸せです。
なぜかというと、思い切り自分の考えや読みかけの本を読む機会に浸れるから・・・。
そんな時、ある女流作家が生物学的見地から見た「人間の生態」について書いていた一節を読んで、思い出した小説がありました。
「サヨナライツカ」辻仁成
本屋に行く機会があったので、ついでに探して購入し読んでみました。
すると、自分の記憶と小説に違いがあると思い、違いが気になり、某会員制無料配信DVDを観直しました。
小説とは、著者の願望が全てですから、映画での表現は別の方が関与されるので表現が違うなと思いました。
「サヨナライツカ」の小説の内容ではなく、女流作家が書いた「生態」と一致していたのは、外国人がメガホンを取った映画の方でした。
女は、優秀な遺伝子をわが身に宿すのが目的であるために、魅力的な男性には女性が群がり、結果、女性同士で奪い合いに発展するものなんだろうな・・・と思った場面がありました。
小説には、男性を真ん中に二人の女性が登場します。
二人の女性の中心となる「豊」はタイに海外の赴任中で、日本に光子という婚約者がいながらも、光子とは全く真逆な、妖艶で自由な女性、沓子(とうこ)との結婚式までの四ヶ月間、甘く濃密な時間を過ごします。
結婚式が間近に迫ったある日、光子が突然沓子のところに乗り込んできます。
豊はその事実を知りませんが、光子は沓子と対峙するだけのために海外のタイに現れます。
その時、沓子に放った言葉や態度がかなり強烈でした。
怒るでもなく、嫉妬心を露わにするわけでもなく、ただただ、淡々と堂々とした優雅な立ち居振る舞いを見せつけ「あなたは暇つぶしの玩具に過ぎないのよ」と言うかのように遠回しに首根っこを押さえつけます。
光子は、父親にも愛人がいて、年に一回開かれるパーティーでは、その愛人には毎年華やかな着物が父から贈られるけど、母(本妻)は、いつも変わらぬ質素で地味目の着物。しかし、その着物には我が家の家紋が刻まれている・・・と。
それが、華やかで高級な着物でも足元にも及ばない、格の違いなのだと知らしめます。
結婚式前日、沓子は光子から言われた通りタイを離れ、豊は光子との生活を選び、年月は流れます。
25年ぶりに豊と沓子はタイで再会し、お互いの感情が再燃します。
光子は、二人の気持ちの結びつきが強いことを知っていて、だからこそ25年間気が気ではなかったんだと思います。感情を無理やり切り離して、自分が本妻の座に就くのだとねじ伏せた行為に怯えて生きてきたのだと思います。
下記の光子の詩が無理やり引き裂かれた、豊と沓子より血がにじんでいるように思えます。
「サヨナライツカ」
いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない
孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい
愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある
どんなに愛されても幸福を信じてはならない
どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない
愛なんか季節のようなもの
ただ巡って人生を彩りあきさせないだけのもの
愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ
サヨナライツカ
永遠の幸福なんてないように
永遠の不幸もない
いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチワがやってくる
人間は死ぬとき、愛されたことを思い出す人と
愛したことを思い出す人にわかれる
私はきっと愛したことを思い出す
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次回、男性の生態につづく・・・